//────────────────────//       妄 執 虚 演 舞 台            間 桐 大 学  //────────────────────//  雪は静かに降っていた。  冬木の空は墨を流したように曇り、間桐大学の重厚な石造りの塔は、その天を突くようにそびえていた。霊脈が巡るこの地に、今や「世界最高の学び舎」として知られるこの大学は、しかしかつ、一人の男とその妻の夢の果てに築かれたものだった。  ────マキリ・ゾォルケン。  彼の名を今の魔術師たちが畏れるのは、決してその呪術の深さや不老の身体のためではない。  彼が「運命に抗おうとした者」だったからである。  時は遡ること三百年余。  16世紀のイギリス、ケンブリッジ大学。その教壇に、異形の魔術師がいた。  長く白い指、冷たい眼差し、時折、理性と狂気の狭間を彷徨うような講義。彼の名を聞いただけで、学生たちは背筋を伸ばした。  その男、マキリ・ゾォルケンが初めて彼女を見たときのことを、誰も知らない。  彼女──「」は、家族を失い、手のひらに煤を染めながら工場で働く少女だった。だが、その目は煤よりも深く、その智恵は星よりも煌めいていた。  女性が大学に入るなど、神をも冒涜する所業とされた時代。  彼女はすべてを偽り、すべてを学び、やがてマキリのもとで学び始めた。  彼女の論文──寄生虫の宿主交代に関する記述と、細胞分裂における魂の位置——それは学会を震撼させ、やがてマキリの名で発表されたことで、教授であった彼自身が告発されることとなった。    ──この論文は神を冒涜している                 /                  否、これは新たな知見なのだ──  英国の数多くの学者が、この学説に震撼し、それと同時に信仰という大きな壁を見上げた。  この時代、神に背く者は魔なる者。拷問され、処刑されてもおかしくはない。そして、それはマキリ、そしてあなた姉弟にも例外ではなかった。  ──逃れるように、彼らは日本へ渡った。  弟、妹と共に、四人で辿り着いた異国の地。そこにて彼女は名を取り戻し、そして彼の妻となり、一つの学問の花を咲かせた。  ──間桐大学。  それは、愛の結晶であり、叡智の塔であった。  だが、幸せは長く続かない。  如何に高名な魔術師であれ、流れゆく時の砂を留めることは叶わなかった。  彼女は老い、大きな病に至る訳でもなく、ただ命の砂が零れ落ちていく。 「私にもっと、知識があれば……」  苦悶の表情を浮かべる私の手を、彼女は優しく握り返して。  そして、微笑みながら彼の腕の中で静かに息を引き取った。 「……なぜ、お前なのだ。なぜ、時は、魂を分け隔てる」 「何が、魔術か。何が、神秘か。最愛の人、たった一人を救えない叡智に、如何なる意味があったものか!!」  マキリは彼女の名を、墓前で幾度となく呼んだ。  幾千もの魔術理論を組み替え、血を捧げ、魂を裂いても、彼女の声は二度と彼に届かなかった。  そうして彼は思いついた。  かつて妻と共に進めた「寄生虫」の研究。寄生虫とは、文字通り生物の体内に寄生し、生きる原生物である。これを、大地を人に、自らを虫に照応させたならば、なし得る業を。  冬木の霊脈。そこに寄生する形で、幻霊として彼女を呼び戻すための儀式を。  ──「聖杯戦争」。  それは欺瞞の劇場。  アインツベルンという魔術師たちを欺き、根源への道を嘯いた詭弁。  愛すべき義弟が婿入りした遠坂という家、そして同じく愛した義妹が嫁いだ衛宮という家を、いずれ舞台に巻き込むであろうと識りながら。  七騎の英霊、七人の魔術師、それらの命と、欲望を捧げ築かれる万能の願望器。  ただそれを練り上げるためだけの、愚かな男の最期の足掻き。  日本に渡る前、教授時代の知己からもらった手紙を思い出す。 「如何なる者であれ、如何なる道理であれ、如何なる理由であれ、道を始めたならば、自ら終わる事は出来ない。君にその覚悟はあるのかい」と。  ──言われるまでもない。私は。  本当はただ、  ただ、もう一度、彼女に会いたかっただけなのだ。  しかし時は無情であった。  100年、200年と歳月が流れても、彼が造り上げた聖杯戦争というシステムは、愛する妻を今一度この地に連れ戻すことはなかった。  それでも、彼はなお信じている。  たとえ世界が終わる日が来ようとも、どこかに彼女の魂は微かに残っていると。  間桐大学の地下深く、封じられた彼女の亡骸に、今日も彼は問い続けている。 「……おまえは、まだそこにいるのか?」  亡骸は静かに、まだ何も語らない。  //────────────────────//  雪が降っている。  この国の雪は、イングランドで見たものとは違う。  静かで、優しくて、けれど、どこか懐かしさを孕んでいる。  ──あの日、わたしたちは、確かにここへ辿り着いた。  私は「」。  名前はもう、意味を持たない。  けれど、あの人に呼ばれた時の声だけが、今も耳の奥に残っている。  ゾォルケン。  私の師であり、やがて夫となった人。  誰よりも孤独で、誰よりも理を愛した人。  けれど、私だけには、理を越えた情を見せてくれた。  日本へ渡ったあの日のことを、私はよく覚えている。  弟と妹の手を引きながら、あの人の背を追い、言葉も通じぬこの地で、一からすべてを築いた。  間桐大学の礎を置いたのは、冬の終わりだった。  寄生虫の研究、細胞の仕組み、そして新たな学問の集積点──私はこの国で、己の学問をようやく形にできた。  子を産み、育て、そして老いた。  病ではなく、老い。  それは、魔術師であるあの人にとって、最も抗えぬ自然の理。  零れ落ちる砂は、誰にも止められないと分かっていた。  あの人の顔を、最後に見た日のこと。  私は既に力を失い、ただ彼の胸元に抱かれていた。  痩せこけた手で、私の髪を撫でる彼は、まるで少年のように震えていた。 「……もう少し、時間があれば」  そう呟いた彼に、私はただ、笑って応えた。 「時間は、もう充分過ぎるほど、いただきましたよ」  その日から、彼は「聖杯」を求め続けた。  英霊を召喚し、その命の灯を犠牲にしてまで、万能の器を作り出す禁断の魔術──聖杯戦争。  アインツベルンの者たちを欺き、七つのクラス、七つの魂を用意し、根源へと至る回路を開こうとする儀式。  けれど、そのすべては一つの願いのため。  ──私に、もう一度会いたい。  幾度も儀式は行われた。  英霊が戦い、砕け、還り、地に怨念を残す。  けれど、聖杯は決して彼に「私」を返してはくれなかった。  時間は、彼からすべてを奪っていった。  血は腐り、肉は崩れ、魂はやがて、「人」としての輪郭を失い始めていた。  それでも彼は、止まらなかった。止まることができなかった。  ────その瞳の奥には、今も、私を見ていたから。  そしてある日、長き旅路の終焉は静かに訪れた。  地下に降り立った彼は、もはや動くことすら困難な姿で、最後の言葉も発さず、ただ、ひとつの幻影に手を伸ばした。 「……あなた」  私の声が、確かに届いたのだろうか。  その瞬間、彼の瞳が微かに見開かれた。  雪のように儚く、白い塵となって、彼の身体は崩れていった。  まるで、やっと、安らぎに辿り着いたかのように。  彼の最期を見届けたのは、冬木に残された古き霊たちだけだったという。  ──けれど私は、確かに知っている。  彼の手は、最後の瞬間、私の手を取っていた。  それが幻であったとしても。               /                それが魔術でなかったとしても。  永劫の孤独を歩いた魔術師は、  愛したひとりの女の声に、やっと、たどり着いたのだ。  ──おつかれさま、あなた。