0 全て主の思うがままに 貴方を父と呼ぶ自由をくださるのなら 1 鐘の音が響きました。 音は良い。あらゆる音は私の心を癒します。 黒板の上に置かれたスピーカーより流れ出た、授業の終わりを告げるこの鐘も。岩の上の蛙の声も。野外で部活動に勤しむ生徒たちの掛け声も。演劇部の発する発音練習も。隣で居眠りするセレトリーチェ様の穏やかな寝息も。 全てが私の中に染みわたり、豊かな音楽を奏でます。 そして当然、子供の無邪気な笑い声も。 「ガラテアー!おひるたべっ...!」 教室の外から響いた声は、己が場違いなタイミングで入り込んでしまったことに気づいたようです。 そう、今の授業はサーキュラー先生。それも熱入りモードなのです。普段から始まりも終わりもきっちり秒単位で正確なのですが、これは始まりが遅れればその分終わりも遅らすという意味での正確さ。昼休みの鐘がなろうとも、授業が時間通りに始まっていなければその分を延長する律儀っぷりです。 哀れ、元気に私を誘いにきた少女は思考停止。お弁当箱を高く掲げたままその運動活動も停止しているように思えます。 「...時間だ。授業終了(ターンエンド)」 教室中の注目が少女に集まり、数秒空気が停止してる間に授業時間は終わりを告げたようです。いえ、正確に時間を計っているのはサーキュラー先生だけですので、可哀そうな少女を見てられず前倒しで終わらせたという可能性はありますが。そうだった場合、明日の数学はこの借金を返すために数分か数十秒伸びることになるのでしょう。 私は早々に机を片付け、未だ停止中の少女に近寄ります。 「こんにちは、調弦様」 「...はっ!あれ!?あのっ、えっとあたし授業中に入っちゃってっ!」 「もう授業は終わりました。お気遣いありがとうございます」 「いつのまに...」 「はい。時は早いものですね」 調弦の魔術師。小柄な私よりもさらに小さい彼女は、その見た目通りこの学年の生徒ではありません。 しかし、何を気に入ったのでしょうか、しばらく前よりこうして昼食に誘っていただいているのです。 「じゃあじゃあ!部室いこ部室!」 調弦様は私の手を引いてずんずんと先導します。 他の生徒たちももう毎日のこと。とっくに慣れた様子で初等部の彼女と、彼女に引っ張られる私を見送ります。 私たちの憩いの場は、大抵の場合、邦楽部の部室となります。 畳張りの茶室で優雅な食事を...といけば良いものかもしれませんが、普通にコンクリートの床で彩られた飾り気のない教室です。音楽室でもないのに特別に防音機能が施されている以上、贅沢でこそあれ、不足などあろうはずもありません。 そこに到着するや否や、調弦様はいつもの定位置に陣取り、てきぱきとピエロ柄の袋を開いて、手持ちのお弁当の姿を露わにします。 「じゃーん!今日はね今日はね!アークが作ったんだよ!」 「なんと。お料理ができたのですね」 アーク。オッドアイズ・アーク・ペンデュラム・ドラゴン様。以前一度だけお目にかかった時は、失礼ながらそのような細かな作業が得意な様子には見えませんでしたが。 人を見た目で判断してはならないということですね。 「ガラテアのは!?ガラテアのはどう!?」 「わたくしのは、いつもと変わらずですよ」 そも弁当など余剰に過ぎないのです。一にお父様への料理で二にイヴ様への料理で三四がなくて五に私ですから。 余った食材を優先的に処理する機会といって差し支えありません。 「うっわ...すご...」 ほら、このように。いつも元気なお声をあげる調弦様も、私の弁当を見た時はテンションが下がっているのか声を潜めるのです。 演奏を披露させていただいた時もこのようなご様子で、本当に私のどこに興味を抱かれたのでしょうか。 私たちはそのまま、いつも通り互いの弁当をつまみ合いながら話をします。 話と言っても、ほとんど調弦様の言葉に相槌を打つだけなのですが。 「賤竜ったらねー『これまだ使えるんだから捨てるな!』って。いやいや、さすがに割れたお茶碗とかいらないよ!うちすぐ食器割れるのに賤竜が全部拾ってくるから全然物減らないんだよ!」 「物を大事にする方なのですね」 「あたしの幼稚園の時のやつも小皿にするんだから!」 彼女の声には独特の濁りがあります。優しさ、純粋さ、それらに混じった臆病さ。 私にはどうもそれが癖になって仕方がないのです。彼女の声は私の周りの『楽器』と比べても、とても心地の良いものなので。 彼女の話にはよく身内の人たちが出てきます。とても仲のいい家族なようですが、同時に家族以外とはあまり馴染めない彼女の本質を表しているかのようです。 私とこうやっておしゃべりできるのですから、杞憂だとは思いますが。 「それでね!紫毒の兄ちゃんが大暴れした時の壁の穴とかもぜーんぶ直しちゃうからもうやりがいが無いって最近真面目になったみたいなの」 「衝動は抑え込んでもよくありませんしね」 「相克も似たようなこと言ってたーでもあいつ力あるだけでもの壊すことないんだよねー。何やってんだろ」 「スポーツではありませんか?以前ボクシングを始めたと小耳に挟みましたが」 「えー!?似合わなーい!」 大きな口を開けて笑う彼女。私も笑顔を作ります。彼女の数十分の一だけ、表情筋を緩めて。 これだけで、彼女は十分気持ちを汲んでくださるのです。 しかし、楽しい時間は永遠には続きません。 防音の教室にも、外からの予鈴が微かに届きました。 「時間かーもっと喋りたかった―」 「また放課後来てくだされば」 「うーん...でも邪魔になっちゃうしなー。いいや、明日また」 言うが早いか、彼女は手早く──別の言い方をすれば雑に──後片付けを行い、行きよりも軽くなった荷物を一つにまとめました。 「ガラテアー?遅れちゃうよー?」 そのまま部室のドアを開くと、急かすような身振りで私を呼びつけます。 「はい、今行きます」 実のところ、帰りの準備が済んだのは私の方が早かったのですが、どうにも私は動きがとろいようで、いつも彼女に先を越されてしまうのです。 ですが、対等な人に手を引かれるというのは、何度やっても気分が良く、私は彼女の音楽に聞き入るのです。